「『普通がいい』という病」という本を読みました。
精神科医である泉谷閑示さんの本です。
帯に「自分を取りもどす10講」とありますが、まさしくそんな感じの本でした。
読みながら、思ったことなどいろいろ書き留めたので、それをここにまとめておきます。
※以下からけっこうダラダラ長いので、気になるとこだけテキトーに読んでください!
- 「葛藤」は健康な状態である
- 不幸印のギフトは受け取るまで再配達される
- 現実だってごっこ遊びにすぎない。「心的現実」が大事
- 心と身体は一心同体。頭はあとからやってきた
- 心の「深い感情」は頭(意識)に出てきて初めて認識される
- 酒乱はシラフのときに抑えつけているせい
- 心の吐き出しノートに書く
- 頭の中の浅い感情は「偽の心」
- 人は、他人の分まで背負うことはできない
- 愛と孤独
- 愛と欲望
- 余ったものをあげる。喜捨。愛の行為。
- 自己愛の障害
- 「絶望」すれば執着をやめて自由になる
- ~し切る。窮すれば通ず。螺旋的思考
- 大通りから抜けて、小径(こみち)を歩く
- 不眠は「未練があって死ねないのと同じ」
- 「人を信じられない」人は、心の戸締りを
- 人間の変化成熟のプロセス
- さいごに
「葛藤」は健康な状態である
29ページ。
葛藤というのは、「頭」と「心」が戦っているような状態なんだけど、やっぱりスッキリしたいから、頭が心のほうを押さえつけちゃうんだそうです。
それが「抑圧」ってやつですね。
心を押さえつけると葛藤状態はなくなるのでスッキリします。
けど、それは「病的な安定」であり、健康な状態ではないと。
だから、治療するときには「病的な安定」を、「健康な不安定」に導いていき、「悩むべきことで悩めるようにする」ということになる。
また、葛藤に耐えられないとまた抑圧してしまうから、悩みや葛藤があっても持ちこたえられるように導いていくことも重要なようです。
葛藤とか悩みって悪いもののように思えるけど、葛藤や悩みの無い人生なんてありえないし、心を押さえつけることなく健康に悩みたいですね。
不幸印のギフトは受け取るまで再配達される
35ページ。
不幸、病気は、なんらかのメッセージを伝えるために来るという考え方です。
そうそう、わたしはこの本を読んでいた当時、精神的な問題で活動休止していました。
カウンセリングにも通っていました。(だから時間があっていろんな本を読みました)
参考:35歳シングルマザーがうつ状態になって1か月のあいだ活動休止した話
うつ状態に陥ったときは、まさしく不幸でした。
けど、そうやってすごくしんどいことがあったおかげで、自分を見つめなおしたり、過去と向き合ったり、これからのことを考えたり、大事なことにたくさん気付くことができました。
不幸印のギフトを受け取れた、という感じです。
でもこのギフト、不幸印だから本当は受け取りたくないないですよね。
だから実際、ギフトを受け取らずに、手っ取り早い解決に逃げてしまう人もいるんだそう。
たとえば病院とかカウンセリングに駆け込んで、苦痛だけを取り除いてもらおうとするような。
そうそうわたしも、自分がカウンセリングに行くまでは、カウンセリングって「苦痛を取り除いてくれる」と思っていました。
いや、最終的には苦痛は取り除かれると言えるかもしれませんが、そんな手っ取り早い手段ではないんですよね・・・。
自分の問題に向き合わなくてはならないからしんどかったですよ・・・
さて、不幸印のギフトを受け取らないとどうなるかというと、何度でも再配達されます。
恐ろしいけど、わたしはめっちゃ納得しました。
わたしはこれまでにもいろんな嫌なことがあったけど、今振り返ってみると、「あのときもあのときも、原因は同じことだったんだ、わたしが不幸印のギフトを無視してたんだ」と思えることがあります。
メッセージを受け取ったことで、わたしは自分の考え方とか行動指針が変わったりしたんですが、そういう変化を得ることで、今後はもう、同じような不幸は降りかかってこないと思います。
現実だってごっこ遊びにすぎない。「心的現実」が大事
54ページ。
わたしたちはよく「現実」という言葉を使いますが、何が現実なのか、突き詰めていこうとすると早々に行き詰りますよね。
本の中の例では、お金の話が出てきました。
わたしたちは、「これを1万円ということにしましょう」と言って紙切れをお金だと、それが現実だと思っていますが、その仕組み的には、「こども銀行」のお金と変わらない。日本銀行ごっこだ。
もう一つの例は、クリスマス。
「サンタクロース」という存在が当然のようにあるクリスマスをお祝いしますよね。
クリスマスのように、「現実」の中には数多くのファンタジーが含まれているというたとえです。
で、現実には「物的現実」と「心的現実」があるんですが、重要なのは「心的現実」。
つまり、「わたしにとっての現実が何か」。
たとえば、親から虐待を受けていたと言っている人がいたとして、治療者が親に虐待の事実を確認するのは違うと。
虐待を受けて育ったと言っている人にとっては、それが心的現実で、「物的現実」で虐待があったかどうかは問題ではないんです。
わたし、カウンセリングを受けるときも、ここが気になっていたので「そういうことか」とすっきりしました。
「わたしが自分の半生を語ったところで、それはわたしの主観でしかないから、誇張もしてしまうだろうし、そんなのでいいんだろうか?なるべくニュートラルに話さなければ」とか思ってたんですよね。
主観でよかった、むしろ主観で話すべきだったんですね。
心と身体は一心同体。頭はあとからやってきた
77ページ。
心と身体は一心同体。頭はあとからやってきたもの、という話です。
心と身体が社長で、計算が得意な頭という秘書を雇ったら、秘書が社長を仕切り始めたりするけど、そうなると心や身体が反乱を起こす。みたいなイメージ。
頭・心・身体の話は何度も出てくるんですが、基本的な関係としてはこれです。
わたしの場合、まさしく頭が偉そうに君臨してて、心を抑えつけていたんだなぁと思います。
あと、このとき思ったのが、「感情のコントロールはよくないんじゃないかな」ということ。
わたしは感情的にならないように気を付けてたつもりが、「頭で感情を押さえつけてた」可能性が高いです。
感情をコントロールしようだなんて、盛大にミスってた。
正しくは「感情の扱い方をコントロールする」ですね。
我慢したりなかったことにしようとせずに、適切な吐き出し方をするのが大事なのかな、と、そんなことを考えました。
心の「深い感情」は頭(意識)に出てきて初めて認識される
111ページ。
頭にも感情はあるそうだけど、それは「浅い感情」なんだそうです。
心は「深い感情」。
けど、その深い感情は、頭(意識)に出てきて初めて認識される。
だから、頭が心を抑えつけていると、本来の感情が出てこなくて、頭側の浅い感情だけになってしまう。
心の感情は、「怒」「哀」「喜」「楽」の順番で出てくる。
しかも、怒りと哀しみにはoldとfreshがあって、ほとんどはoldな感情とのこと。
oldつまり古い感情ですが、これは腐ってドロドロになってるので、とにかく溜まってる分を出し切らないといけないと。
oldに対して、freshな怒りや哀しみは、こざっぱりしているからタチが悪いことはないみたい。
で、心の怒りや哀しみをちゃんと出したら、頭で感じる浅い感情ではなく心で感じる深い「喜び」や「楽しさ」も感じられるようになる。
と書きながら、わたしもまだあんまりわかってない感じがしますが、おもしろい話なので書き留めておきました。
酒乱はシラフのときに抑えつけているせい
119ページ。
酒乱。シラフのときに押さえつけてるから、酔ってフタが外れたときに大変なことになる。
ちょうど、こんな記事が出てたよ。
「酔った勢い」はなく、元々の道徳観が出るだけ 実験で判明か
だから酒乱とか酒癖悪い人も、治療受けたほうがいいよね。
心の吐き出しノートに書く
120ページ。
心の吐き出しノートを作って、なんでも、好きなだけ書くのがいい、という話。
まさしく。書いてるうちにいろいろ成仏してくんですよね。
純粋に考えていることが整理できるというのもあるし、思っていることを吐き出してスッキリするのもあるし、あと、いっぱい書くと疲れてスッキリするのもある。
わたしは自分が1か月休養することになって、とにかく書きまくった日々でした。
時折、「これが1文字5円でももらえたらなぁ」などと思ってしまいますが。笑
もともと書くのが好き&速いので、とてつもない量の文字を打ったと思います。
あ、そう「打った」んです、書いたんじゃなくて。別に、手書きにこだわる必要はないですし。
あと、文章を書くのが苦手な人は、箇条書きとか単語だけでもいいし、語彙力少なくていいし、絵でもいいし、なんでもいいと思います。
わたし、昔はむしゃくしゃしたら紙にぐるぐる書きまくったり、格子柄を書いて1マスずつ塗りつぶしていくとかしてました。
頭の中の浅い感情は「偽の心」
122ページ。
頭の中の浅い感情のことを、偽の心という。
たとえば「行きたいのに行けない」というのは偽の心。
心と身体は矛盾しないので、行きたいなら行くし、行きたくなければ行かない。
という話を読んで、「なるほど!」と納得しました。
行きたいけど行けない、みたいな、行動と感情が矛盾しているようなときは、「これは頭が勝手に行きたいと思おうとしてるだけで、心は行きたくないんだな」と考えればいいわけですね。
人は、他人の分まで背負うことはできない
141ページ。
ここは、本文そのまま引用します。
人間というものは、脚力と同じで、自分一人を支えるくらいの力しか持たされて生まれてきていませんから、他人の分まで背負うことはできない。ですから、夫婦・恋人・友達・親子といった親密な人間関係でも、また治療関係においても、それぞれが自分の足で立っていて、たまたま同じ方向に向かって、並んで歩いているにすぎないことをわきまえる必要があるのです。
わたしがしんどくなってしまったのは、他人の分まで背負おうとしたからでした。
もう、今までの人生ずっと、他人の人生を勝手に背負ってた感じ。
で、わたしは「ちゃんと何人もの人生を背負えるだけの脚力がほしい」とか思ってたんだろうな。
そうじゃなくて、そもそも背負えないということをわきまえて、並んで歩くべきだったんですよね。
カウンセリングを受けながら徐々にそんなことに気づいたので、この言葉にもすごく納得感がありました。
愛と孤独
143・144ページ。
ここも引用します。
「万有引力」は、「愛」のメタファー(隠喩)として、実にうってつけのものだと思います。宇宙の無限の闇の中に、星々は「孤独」に浮かんでいる。しかし、その星々は互いに「万有引力」によって結ばれている。「孤独」あるところには必ず「愛」が生じる。しかしまた「愛」は、それぞれが「孤独」であることを前提としている。「孤独」の世界は、この「愛」によって賑やかさが与えられている。だから「孤独」とは、決して冷たい死の闇ではないのです。「孤独」に足を置いた者の最低限の想像力によって、他者も自分と同じように「孤独」という状況を生きていることに気が付くこと。それが「愛」の出発点なのです。
この前の部分で谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」が引用されています。
わたし、谷川俊太郎さんの詩も、本を買うほど好きだったはずなのに、よくわかってなかったわ~。
愛と欲望
146ページ。
ここも引用します。
愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。
欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。
愛って、難しいですね!!
「あなたのためにやってあげたのに」みたいなことを思ったことがあるのはわたしだけではないはずですが、これも「欲望」なんですよね。
子どもに対しても言ってしまいがちなことですが、相手を思い通りにしようとしているのは愛ではなく欲望だから、よくないですね。
引用した愛と欲望の定義がすごくわかりやすかったので、心に刻みたいと思います。
余ったものをあげる。喜捨。愛の行為。
151ページ。
プレゼントを無下にされるとムカつくけど、自分が要らなくなったものを、捨てる代わりに人にあげたのだとしたら、無下にされたとしても怒るほどのことではない。
どっちみち捨てるつもりだったし、みたいな。
「相手のために」と何かするのは「感謝されたい」「認められたい」「いい人だと思われたい」のような「欲望」がある。
わたしたちは「欲望」を捨てることはできないけど、そんなわたしたちでもできる愛の行為が、「余ったものを、捨てる代わりに人にあげる」ということ。
仏教でいうところの喜捨。
という話なんですが、カウンセラーさんからも、同じようなことを言われていました。
まずは自分の仕事をしっかりすること、自分の生活をしっかり守ること、好きなことをして暮らすこと。
そして、人助けをするなら余暇を使ってすること。
わたしはつい、いとも簡単に自分のことを後回しにしちゃうし自分を犠牲にすることを厭わないんですが、反省しました。
そもそも、人を救えると確信してるあたり、おこがましいしね・・・。
あと、わたしは自分を大事に思えていなかった(自己肯定感がなかった)ことが、自分を犠牲にする原因でもあると思います。
(このあたりは、育ち方に原因があったようです)
自己愛の障害
167ページ。
そうそう、わたしの自己肯定感、自己愛の問題に関しても、こんな話が書かれていましたのですぐさまメモりました。
自分自身への愛がうまくいかないのは、自分に欲求を向けている状態。
で、それは、親との関係で発生する。
本来なら自己愛は誰でもあるのに、親との関係によって歪められる。
それは単なる「愛情不足」ではなく、子ども側が、親という絶対的存在を守るために、「自分が悪い」とか「自分が間違えた」と思ってしまう。
子どもが、親よりも鋭敏で思考力が高いケースも多い。
この場合は親の認識の自分の認識にズレが生じても、「でも親が間違うはずがないから」とか、「親はわざと意地悪してるんだ」とか解釈して、「自分は愛されない存在」だと結論づけてしまう。
このような解釈をしてみると、「なーんだ、そうか~」とか思えますね。
(って、ここで共感できちゃった人はカウンセリング行ったほうがいいんじゃないかと思いますがいかがでしょう)
「絶望」すれば執着をやめて自由になる
175〜176ページ。
本当の「絶望」は「望」みが「絶」たれた状態。
だから、それに執着するのをやめて次の行動に移ることになる。
言い換えると自由になる。
「絶対」と嘆きたいときは、実際には望みがまだ絶たれていないというか、まだ何かに期待している。
「そもそも残している期待のほうが問題なのでは」と考えてみる必要がある。
たとえば相手がパーフェクトなサポートをしてくれるとか、そんなありえない期待をしているなら、さっさと絶望して次の行動にうつったほうがいい。
という話です。
絶望的な気分のときは、「わたしはまだ何に期待してるんだ?」と自問してみると、変な期待を残していることに気づけて、正しい意味で絶望できそうですね。
~し切る。窮すれば通ず。螺旋的思考
177ページ~
これは、気になる人は該当箇所をしっかり読んでもらったほうがいいです。
ここで軽くまとめても意味不明だと思うので。
わたしなりにまとめると、愛の存在になろうと禁欲的な行動をするのではなく、欲望を増して、増しきってしまうと、一周まわってゼロに戻る。
さらに、それは螺旋構造になっている。
「~し切る」とか「窮すれば通ず」ということ。
この例はイメージしやすいと思います。↓
神経質な人が鈍感になろうとすると無理することになるけど、逆に、神経質に磨きをかけ追求していけば、いずれ極みに達してポンと抜ける。
神経質を極めると、細かいことを敏感にキャッチしつつも、振り回されずにどっしりとしていられるようになる。
それは、一見(ゼロ地点にいる)鈍感な状態と変わらないかもしれないけど、実はちがう。
そうやって、一周するごとに成熟していく。
たしかに、神経質な自分を抑え込んでいくと無理がきますが、抑え込まずに極めてしまえば、かえって余裕が生まれるようなイメージはありますね。
大通りから抜けて、小径(こみち)を歩く
210ページ~
マイノリティの人は道なき道を一人で進む。
けど、自分の意思ではなく無自覚にうっかりみんなとはぐれて小径に入ってしまうと不安になり、精神科を受診したりすることになる。
大通りを歩くのは「みんなと同じ」というだけで、自分で決めてなくて、つまり、自分の人生に責任をもっていないこと。
大通りに戻る必要はなく、自分の意思で小径を行く。
という話です。
あと、本来は大通りなんて必要なく、100人いれば100通りの小径があるはずだ、とも書かれていました。
でも、実際には、自分の人生に責任をもたずみんなと同じ大通りを歩いている人がたくさんいる、とのことでした。
わたしも、そうであったと思います。
わたしはみんなと違うことをするタイプではありましたが、それも「みんな」に特別な存在だと思われたいとか、そんな感じだった気がする。
小径に行くのではなく、大通りの中で蛇行したり飛び跳ねたりしてるだけだったかも。
今は、小径にずんずん進めそうな感じです。
不眠は「未練があって死ねないのと同じ」
224ページ。
寝る=死ぬ、と考えると、不眠は「死ぬに死ねない」状態。
「今日」という人生を生きたという手応えがなく、未練がある。だから死ねない(寝られない)。
自分らしい時間を過ごすようにしてみる、好きなことをしてみると眠れる。
未練があるから死ぬに死ねない状態が不眠、って、面白いですね。
わたしはよく寝るタイプでしたがここ1年ちょっとぐらいはあまり寝れてなかったです。
休養するように言われてからはやっと、気ままな生活をして、寝やすくなりました。
「人を信じられない」人は、心の戸締りを
235ページ。
そもそも、人を100%信じるのがおかしい。
チャイムが鳴ったときに相手を確認せずにドアを開けるようなもの。心の戸締りが必要。
相手を100%信じるのは相手に完璧を求めるのと同じこと(欲求)。
「あ、わたし、心の戸締りをしてないときがあったかも・・・」とびくっとしました。
信じて大丈夫な相手かどうか、ドアを開ける前に確認しないとだめですね。
人間の変化成熟のプロセス
246ページ。
本の最後のほうで、これまでの内容がきっちりまとめられていました。
ありがたい~
というわけで、読んでない人には意味不明な部分もあるでしょうしぜひ読んでいただきたいですが、自分のためのメモとして引用しておきます。
以下が、人間の変化成熟のダイナミクス。
- A.生まれたての状態。「本当の自分」のみだが、純粋でこわれやすい。「自分」という意識は未だない。
- B.徐々に社会適応のために神経症性や「偽りの自分」を身につけていく。しかし、時々窮屈さを感じた「本当の自分」が反発する。いわゆる反抗期。必死で「自分」を獲得しようとする。一人称を模索する。
- C.反発の挫折と社会への屈服。「偽りの自分」に「本当の自分」が飼い馴らされる。社会適応が完成し、一人前の社会人になる。神経症性のピーク。「他者本位」。0人称。駱駝。
- D.「本当の自分」が反逆を始めようと疼きはじめる。自分を見失ってしまったための苦悩が起こったり、心身の不調や、急に起こってしまう不適応などの形でシグナルが現れてくる。「他者本位」の行き詰まり。
- E.「本当の自分」による革命動乱。溜め込まれていた怒りの噴出。一人称の出現。個人主義。「自己本位」。自力。獅子。
- F.「自分」という一人称が消え、大いなる存在にゆだね、自然や偶然に身を開いていく。宗教的な意味での0人称。他力。小児。純粋さと強さの共存。創造的遊戯。
さいごに
この本は説明がわかりやすいだけでなく、さまざまな名著や詩の引用があり、理解を深める助けになりました。
ほとんどが読んだことのある作品だったので「あー、わたしは何にも理解せずに読んでたんだな・・・」と軽くショックを受けましたが、それらをまた読み返す楽しみもできたのでよかったです。
この本自体も、このページで書いた話以外にもまだまだ面白い話がたくさんあったので、繰り返し読みたい本になりました。
こんなめっちゃ長いブログをここまで読んでくださった人ならきっとこの本も楽しめるはずなので、ぜひ読んでみてください。
この本を教えてくださった松本さん、ありがとうございました!