「話せば分かり合える」という戯言に関する気づき2つ

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ひとりごと

わたしは子どものころから、「どんな人とでも、ちゃんと話し合えば、分かり合えるはずだ」と信じてきた。

大人になるころには、「話しが通じないヤベー奴も世の中には存在する」と気づいていたけれど、それでも、「ヤベー奴」以外の人には、話せば分かると信じていたと思う。

あなたはどう思う?

わたしは、この「話せば分かり合える」という戯言について、2つ、気づいていることがある。

気づき①「ヤベー奴」じゃなくても分かり合えない人はけっこう存在する

ひとつめは、分かり合えない相手はいわゆる「ヤベー奴」だけではないということ。

若い頃は、たとえば薬物中毒の人とか、そういう反社会的なヤベー奴とは、分かり合えないよなって思ってた。

でもたいていの人とは、ちゃんと話せば分かり合える。と、きっとほんの数年前ぐらいまで、無邪気に信じていた。

たとえばお店にクレームを言ってもちゃんと対応してもらえなかった、みたいなときでも、しっかりと時間をとってお互いに言いたいことを言い合って話し合えば、最終的には分かり合えると、わたしは思っていた。

しかし、「ヤベー奴」ではなさそうな普通の人でも、どれだけ丁寧にコミュニケーションを重ねようとしても、分かり合えない人は存在する。

一番タチが悪いのは、わかったフリをする人だと思う。

はじめから全然話が通じなければ、「ヤベー奴認定」して距離をとることもできるし、そこまでじゃなくても、こちらもしつこく話をしようとは思わないし、お互いにフェードアウトできる。

ところが、わかったフリをするタイプの人だと、こちらも「話し合いの末に分かり合えた」と認識する。

でも相手はわかってないからまた相手が同じトラブルを起こしたりして、それでまた丁寧に話をする、わかったフリをされる、分かり合えたと思う、また同じトラブル……というループが生まれる。

はじめのうちは「こちらの説明が悪かったのかな?」とか考えていろいろ試行錯誤するけど、気づいたときには莫大な時間が浪費され、状況はなに一つ進歩していないという地獄が待っていたり、する。

見るからに「ヤベー奴」とか見るからに気が合わなさそうな人だけじゃない。普通の人でも分かり合えない人はけっこう存在しているし、中にはわかったフリしてこちらの好意だけを搾取するような、普通のフリしたヤベー奴も存在している。

気づき②分かり合えるまで話し合える相手はごくごく少数である

「じっくりと丁寧に話し合いをすれば、だいたいの人とは分かり合えるはず」。

今でも、そういう感覚はある。

けど、いつでもどこでも誰とでも、じっくり丁寧に話し合いができるのか?

できないよね。

わたしたちは忙しいし、わたしたちはいつも、疲れている。

時間も精神的余裕も無い。

限られたリソースは自分や自分の大事な人に使いたいから、日々あちこちで起こるちょっとしたすれ違いやトラブルに対して、いちいち膝を突き合わせて話し合っている余裕はない。

映画『怪物』を見たときも、わたしは「このときちゃんと話し合いができていれば……」「このときちゃんと話を聞いてあげていれば……」と何度も思った。

あれはフィクションだけど、描かれていることは限りなくノンフィクションに近い。

たしかに、その都度しっかり話し合いができていればさまざまなトラブルや諍いや悲劇は防げるかもしれないけど、そんな余裕が、わたしたちには無い。

だからこそ、法律やルール、社会規範というものがある。

分かり合えなくてもルールがあれば、ルールに沿って処理していく。

まあ実際には、「ルールのほうがおかしいんじゃ!!」と和を乱す人もいるし、実際に狂ったルールが存在したりもするから、分かり合えない相手と泥沼の戦いをしなければならないことも時にはあるんだけど。

ところで、『怪物』すごいな

先日ブログも書いたけど、『怪物』はすごい作品だな、と。

わたしは散歩が好きで、歩きながらいろんなことを考える。

生き方とか道徳的なこととかそんなことを考えるとき、これまでは『罪と罰(ドストエフスキー)』を題材に考えることが多かったんだけど、最近は『怪物』を題材にすることもあるんだよね。

『罪と罰』は高校1年のときに読んで衝撃を受けた作品。『怪物』は、それに匹敵するレベルなのかな、と。

えずさんが、『怪物』を見たあとのブログでこう書いていた。

ただひとつ言えるのは、この映画を観る前と、あとでは、確実に目に映る世界は変わって見えるということだ。

監督・是枝裕和 × 脚本・坂元裕二の映画『怪物』を公開初日、朝一番で鑑賞してきた。-エッセイスト・ライター江角悠子|京都くらしの編集室

まったく同じことを、わたしは『罪と罰』を読んだときに思ったんだよね。

きっと、『怪物』は今後何度も見ると思う。

このしんどい世界を生きていく上で、こういう素晴らしい作品に出会えたことは、本当に幸運なことだ。

話せば分かるなんて戯言は捨てて、わたしは自分のことを考えたり、自分が好きな人との幸せなコミュニケーションに、時間を使っていきたい。