報われない努力が嫌い。
わたしは勉強ができるほうだったし、仕事もできるほうだと思う。でもそれは、勉強も仕事も、頑張りが報われるものだから頑張れただけで。報われる努力だけをして、大人になってしまった。
小さい頃は、頑張ってみたこともあった。純粋無垢に一生懸命走って、母から走り方が変だと馬鹿にされたり、「なんで国語や算数は『よくできる』やのに体育は『できる』なんや。こんなもん誰にでもできるやろ」と言われたりした。そうか、頑張っても、結果を出さないと認めてもらえないのだな、と幼心に思ったことを覚えている。
小さなわたしが母に対して示した頑張りや、挑戦は、ことごとく否定された。容姿も、鼻が低いだのクソジジイ(注:実父のこと)にそっくりだの、ブスだのなんだの言われ続けていた。わたしの努力やわたしの存在そのもの、やることなすことすべてが、いつも価値がないもの、馬鹿らしいものとして扱われてきた。
得意だった勉強でさえ、母からは「あんたは勉強机を買ってもらえて、思う存分宿題ができていいよな。お母さんなんて(以下、母の子ども時代の不遇話が始まり、わたしは宿題をする手を止めてその話を聞かざるを得なくなる。)」と言われ、愚痴の対象になった。
それでも勉強をやめなかったのは、母以外には認められ、努力が報われたからだと思う。幼稚園では、いつも先生に褒められた。小学校に入ると、通知表というもので評価され、頑張りはすべて認められた。家では価値がなく馬鹿でブスで悪者のわたしも、学校では価値があると評価された。努力が報われると、生きてて良いのだと思えた。
働くようになってからも、努力が報われる仕事を選んでいた。歩合制で給料が決まる仕事ばかりしてきた。今は自営業だから、やはり、自分の努力次第で収入が決まる。
ただ、とはいえ、勉強も仕事も、そんなに努力はしていない。
報われる範囲でしか努力できない。
一歩踏み込んだ挑戦、一か八かの挑戦、というものを、わたしはしたことがない。報われるか分からない努力はしたくない。努力が報われなかったとき、結果がでなかったとき、わたしは世の中から否定され、価値がなく、バカでブスで悪者になってしまうのだから。大きな挑戦なんて、そんな怖いことはとてもできない。
わたしの人生、それで良いのだろうか。これからも、大きな挑戦を避けて生きるしかないのだろうか。そりゃ、一か八かの挑戦をできるほうがかっこいいし、憧れる。そういう自分になりたい。けど怖い。結果を出せないとたちまち自信を失って消えたくなる自分と決別できるよう、医療的とか心理的とかのアプローチでなんとかする努力をすべきだろうか。
でもその努力が報われなかったら?もう、精神科にも心理カウンセリングにもだいぶ通ったけど、まだ必要?いや、それでも挑戦すべきで、もし今の自分と決別できたら、わたしは今よりもっと大きな挑戦ができて、今よりもっと面白い人生が送れるようになるかもしれないのに。という堂々巡り。
結論は分かっている。わたしは、結果がでなくとも、努力が報われなくても「消えたい」なんて思わない人になりたい。努力が報われなくても「あら残念」と軽く受け流せたり、「くっそ〜!次こそは!」と悔しさをエネルギーに転換できたり、そういう人になりたい。なれたらいいな、とは思う。
なり方が分からないだけ。
最近、図らずも、わたしにとっては大きな挑戦をすることになった。そしてその結果、報われなかった。悔しくて泣いた。めそめそと泣いて、その場にいる人たちみんなが慰めてくれた、励ましてくれた。なんとか立ち直ろうと甘いものを食べたりもした。でもだめだった。世の中に受け入れてもらえなかった、やっぱり生きている価値がない、消えたい、という気持ちがどんどんん膨らんだ。帰りの電車の中でも、駅からの歩く道でも、涙をこらえていた。家に帰ってから、ぽろぽろと涙がこぼれた。こぼれる涙は、流れる涙になって、全然止まらなかった。
でも。もしかしたら。この経験によって少しだけ、強くなるかもしれないという気もしている。絶望しても朝はやってくるし、仕事もあるし、遊びの予定だって入っている。わたしは全然ひとりぼっちじゃないし、価値があろうがなかろうが、図太く生きればいいじゃないか。今は気持ちの落ち込みが激しいけれど、たとえば年に1回でも報われるか分からない挑戦をしてみたら、少しずつ慣れていくんじゃないか。そんなことを、涙と鼻水を垂らしながら考えた。
このエッセイのタイトルは、本文を書く前につけた。
「もう頑張りたくない。報われないと、消えたくなるから。」
書く前の気持ちはたしかにそうだった。今の気持ちははたしてそうだろうか。自信はないけど、多分そんなことはない。多分、わたしはしぶとく頑張ると思う。頑張りすぎると本当に消えてしまうかもしれないから、ほんの少しずつになるとは思うけど、きっとまた頑張る。