自主性が無いわたしからの脱却

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ひとりごと

人に合わせることが苦にならず、人のために生きがちだったわたしは、自主性がなかった、と言うこともできる。

人に合わせるのが苦にならないどころか、そもそも自分が何をしたいのかをよく分かっておらず、考えるのが面倒で人に合わせるほうがラクだった、という側面があった。

けれど、自主性が無いと、すごく損なんです。

たとえば、邪悪な人から搾取される。

平気で人の親切を貪るタイプの人からターゲットにされ、何の見返りもないまま好意、労力、お金、時間などを搾取されやすい。

搾取とまでいかなくても、主張すべきときに主張すべきことを言えず、損してしまうことは多々ある。

わたしの自主性のなさの原因は自己肯定感の低さに由来する。

自分の価値がない→ほかの人のほうが価値がある→ほかの人に従っておかないといけない

みたいな思考。

分かってますよ、歪んでるって。

けれど、無意識レベルではこういう歪んだ思考が染み付いているから、ときどき自分の思考や行動をチェックしないと、ナチュラルに自主性を放棄してしまうわけ。

というか、ときどきチェックすることで、「また自主性を失って損しとるがな!!」ってようやく気づくことがある。

若いころはこういうチェックもできなかったし、そもそも自分の価値観が歪んでいることも分かっていなかったし、損してばかりいたのかもしれない。

世の中には優しい人・親切な人だってたくさんいるけれど、かと言って「あなた、これを選ぶと損するわよ」と教えてくれるわけではない。

だって、他人は他人。わたしにとって何がメリットなのか、何が幸せなのか、それはわたしにしか分からないのだから。

わたしが自分で、自分のことを決めなければならないの。

こんな当たり前のこと、子どものうちに身につけておきたかったよ。

今も、自然な自主性が無いから「自主性を失っているんじゃないか」「自主性がある人はこういうときどうするの?」とか、いちいち考えてからじゃないと動けないことがある。

最近「失敗した!!」って思ったことがあって、そのとき「でも、あの時あの人が指摘してくれたら失敗しなかったのに」って、一瞬考えたのね。

これはこれで、自責がひどいわたしにしては進歩なんだけど。他人の責任について考えられるようになったっていう。

でも、そうじゃないな、最終的に損するのも得するのもわたしなのだから、わたしが主体的に考えて行動すべきだったんだ、と思い直した。

最近よく思う。わたしを助けるのは結局わたししかいないと。

万人に気を遣って万人に好かれようとして死にそうになっていたわたしは、もう今はいない。

まだまだ生き方は上手じゃないけど、間違いなく前進はしている。

うまく生きられないけどご自愛しながら生活し続けようと思う。