「子は親を救うために『心の病』になる」。
ギョッとするタイトルの本を読みました。
子どもが心の病になった人、自分自身が心の病になった人、どちらの立場で読んでも、いろいろと考えさせられる本だと思います。
わたしもいろんなことを思いながら読みましたが、特に、「自分は9割に入らないんだな」ということを、改めて痛感しました。
普通の親、虐待する親、親になれない親
この本では子どもの心の病についてさまざまな事例が取り上げられているのですが、それらを、親の属性で3つに分類してありました。
以下の3つです。
- 普通の親
- 虐待する親
- 親になれない親
3つ目の親になれない親、というのは、わたしが考えた表現なのですが、本文中では、たとえば親自身に発達障害があったりして、親としての役割を果たせていないパターン、といった趣旨の説明がされていました。
「親になれない親」は、善悪の区別など、普通の親が当たり前に教えることを教えられません。
また、虐待する親の場合は、善悪をあべこべに教えてしまいます。
たとえば、「暴力を振るわれても我慢しなければならない」「暴力に耐えるのが善で、反発するのは悪だ」と。
9割は「普通の親」
世の中の9割は、「普通の親」なんだそうです。
ただ「普通の親」であっても、親自身に心理的な問題があって、その影響で子に心の病が生じることもあるそう。
1章と2章では、「普通の親」パターンの事例が紹介されています。
3章では虐待パターン、4章では親が役割を果たせていないパターンの事例が紹介されています。
さて、わたし自身はというと、わたしは虐待パターンに当てはまるな、と思いました。
恐ろしいもので、自分が虐待を受けたかどうかは、自分ではよくわからないものです。
未だにそうです。
でも、下記のような記述を見ると、客観的事実として、「あ、これわたしのことだ」と思います。
113ページ。
例えば、私が出会った子どもには叱られて三時間も寒いベランダに出されていた女の子がいたり、台所で許されるまで何時間も正座させられた男の子がいた。
激しく罵声を浴びせ続ける、言葉によるおどかし、脅迫。
ほかにも、これって虐待だよねと思う経験は腐るほどあるわけです。
わたしは普通じゃない親に育てられた。
虐待されていた。
暴力や暴言には耐えなければならない、自分が大事にされないのは自分が悪い人間だから。愛されるためにはなんでも完璧にこなさなければならない。
そういう感覚が染みついています。
もちろん頭では分かっているんです。それが間違っていると。
でも、今でも、たとえば人から急に怒鳴られたりしたら、自分が悪いと感じるし、自分がなんとかその場を収めなければならないと感じます。
きっと、普通の人は、知らない人に急に怒鳴られても「なんで?」とか「え?わたしに言ってる?」とかそんな感じ方なんじゃないかな。
知らんけど。
わたしはそうじゃありません。
わたしは、世の中の大半を占める「9割の普通」には当てはまらないのです。
だから、普通に生きるだけでも相当なエネルギーを使う。
198ページ。
彼らは「普通の」社会生活を送るために、人の何倍もの苦労をする。
だよね。
にも関わらず、わたしは大人になってからもその事実を知ることもなく、知らず知らずのうちに「普通のフリ」「平気なフリ」をしてきたんだと思います。
だから少しずつ無理が溜まって、どこかで壊れてしまう。
あとどうしても、人って似たもの同士でつるんでしまうから、わたしの周りには似たような人(虐待されて育った人)がけっこう多いんですよね。
するとなおさら、「たいていの人は親から殴られたりして育ってるものだ」みたいな間違った認識をしてしまいます。
なんなら、「わたしは習い事もさせてもらってたし、服も買ってもらってたから虐待とは言えないかも」とか思ってしまう。
怖いですね。
児童虐待は「悪のプログラミング」だと思う
虐待は、心身に重大な傷を負わせます。
暴力もあれば後遺症が残る恐れもありますが、心の傷によって心身症の症状が出ますし、それが不登校、非行、うつ病、摂食障害等の形となって現れることも。
虐待によって負わされた心身の傷は、癒えるのに時間がかかるし、時間をかけても治らないこともある。
それはそれで大問題なんですが、最近わたしが思うのは、もっと深刻なのは、虐待による価値観の歪みなのではないか、ということです。
価値観の歪みというのは、前述の「善悪をあべこべに」といったところのことです。
虐待によって、悪のプログラミングをされてしまい、価値観が歪んでしまう。
自分は価値の無い人間だ、失敗したら殴られるものだ、と。
こういう歪んだ価値観でずっと生きてしまうから、人間関係もうまく築けない。
わたしが仕事大好きになったのも、仕事なら確実に必要とされる(価値のある人間だと認められる)からで、生きてていいと思えるからなんだと思います。
仕事だと人間関係も苦にならないし。
でもそういう価値観の歪みがあると、幸せになれないんです。
なぜなら、「愛されるにはすべてを完璧にやらなければならない」という価値観があるから。
親がわたしの希望を否定するのはわたしの希望が間違っているから、親が自分の話ばかりしてわたしの話を聞いてくれないのは、わたしの話に価値が無いから。
親に殴られるのはわたしが給食のお箸を出し忘れたから、冬に外ではだしのまま立たされるのはわたしが体操服を洗濯に出し忘れたから。
親に包丁を突き付けられるのはわたしが何度も同じ失敗をするから、今回助かったのは親が優しいから。本当ならわたしは殺されても仕方のない人間だ。
そういう子ども時代を過ごすと、「わたしが親に愛されないのは、わたしがあれこれ失敗するからだ」「わたしが一切失敗をせず気が利いて愛想の良い賢くかわいい子どもなら愛されるはずだ」という価値観が強化されます。
そしてそのまま大人になり、「わたしが完璧な人間になれば、きっと誰かに愛されるはずだ、そして幸せになれるはずだ」と思い生きていくことになります。
でも、完璧になんかできません。(完璧な人間なんていません。)
完璧にできないのだから、わたしは永久に誰かに愛されることはないし、幸せにもなれません。
っていう、価値観、怖くないですか!?
わたしは幸い、今はだいぶ価値観を修正できています。
大学では教育学を学んだのでそのときに、虐待に関する本も読み「これ、わたしのことだ」と気づいたし、AC(アダルトチルドレン)という言葉が流行ったときも「これ、わたしか」と思いました。その中で、少しずつ矯正できました。
この数年はカウンセリングに通うなど自分と向き合う時間が多かったですし、だいぶ矯正できました。
とはいえ、初期設定がぐちゃぐちゃなのを直すというのはなかなか大変なもので、少しずつ少しずつです。
今も疲れがたまってくると歪んだ価値観が無意識のうちに動きだすし、相変わらず、普通の人たちの中で普通のフリをして生活するのはなかなか大変。
普通じゃない人生を生きるしかない
児童虐待は、本当に、絶対にあってはならないことのはずです。
にも関わらず、現状、野放しにされすぎていると感じます。
わたしは全身アザだらけで登校しても、先生はなんにも助けてくれなかったし、何があったか聞かれもしなかった。
学校や児相の対応は昔よりはましになっているのかもしれないけど、まだまだですよね。
それに、性的虐待やネグレクト、心理的虐待の場合は外から見えにくいものも多い。
あからさまに大声で怒鳴るとかじゃなくて、「ひたすら笑顔で親の意向を押し付けて、反抗しようとすると子どもを責めながら泣く」みたいなタイプとか。
虐待の問題を考え出すと、本当に気分が悪い。
でもどれだけ嘆いてみても、わたしが9割の普通の人たちとはまったく違う価値観を初期設定にされてしまった事実は変わらない。
だから、これで生きていくしかないんですよね。
どれだけ思い出の品や写真を捨てても、子ども時代をなかったことにはできない。
それに、普通の人たちにも悩みや困難はあるし、「普通の人たちは幸せで虐待された自分は不幸」みたいな話でもないですからね。
羨んでも仕方ないっていうか。
こうやって本を読んであれこれ考えだすと「つらい~つらすぎる~」ってなることも仕方ないし。
たまにこうやってつらくなりつつ、自分に向き合ってみたりして、そのあとはちゃんと自分を甘やかしたりして、楽しいことも考えて、バランスとって生活していこうと思います。